『大森靖子とセカイ系をめぐって――大森靖子はいかにしてセカイ系を継承し、破壊し、再構成したか』

執筆者:二枚貝〈双川望〉

※本稿は文学フリマ東京42 – 2026/5/4(月祝)にてゼロ年代サブカルチャー研究会の冊子に寄稿したものを再録したものとなります。

目次
1,はじめに――大森靖子について
2,セカイ系の定義と「エモ」について
3,大森靖子とセカイ系をめぐって
4,大森靖子と不在の「魔法」、あるいはその絶望について
5,ゼロ年代とテン年代の「少女」について――――『銀杏BOYZ』を中間項として
6,結論―星空の遠さに対する反逆、「ピンク」色で抗する〈超〉歌手としての大森靖子

1,はじめに――大森靖子について

 大森靖子は1987年生まれのシンガーソングライターであり、「超歌手」を自称する個人としての活動の他、アイドルグループZOCのメンバーおよびプロデューサーとしても知られている。そんな彼女は初期には高円寺での弾き語りをルーツとしており、過去には「激情派」と形容されたように、女の子性や「かわいい」、そして「かわいい」が孕むキラキラした部分とドロドロした部分の両面を過剰なまでに強く押し出した歌詞(メロディ)および不安定さを孕んだ感傷をも歌うことから、いわゆる「メンヘラ」的カルチャーのアイコンとして見られることもある。

 具体的には、そのような「メンヘラ」として他者から表象(あるいはラベリング)される性質の極として初期の曲である「パーティドレス」(2012)を挙げることができる。

  ときどき 歌舞伎町にいかないと
  幸せがわからない
  ときどき手首を切らないと

  幸せがわからない
  他人の不幸と比べても

  幸せはわからないよ
  きたないオヤジと やらないと 

  幸せがわからない
  とっても不幸になりたいの 

  だから我慢してキスをして

 以上は「パーティドレス」の歌詞であるが、そこでは夜職で生活しており、ときどき手首を切ったり、身体を売らないと幸せが分からないという「女の子性」の暗くてドロドロした側面が歌われる。

 一方で、代表曲である「絶対彼女」(2013)では「絶対女の子 絶対女の子 絶対女の子がいいな」と歌われるように、「女の子」や「少女」であることに付きまとう苦痛や苦悩やドロドロしたものを歌いながらも、それらすべてと鎖のように不可分に結ばれたものとしての「かわいい」を全力で肯定する[i](超)歌手、それこそが大森靖子である。

 本論ではそのような、一見すると「セカイ系」との直接的な関係がないようにも見えるテン年代から始まった(超)歌手としての大森靖子がいかにしてセカイ系を継承し、そして反逆、再構成をしているかについて。および大森靖子を手掛かりとしたゼロ年代とテン年代の少女表象の差異について論じる。

2、セカイ系の定義と「エモ」について

 まずは、「セカイ系」の一般的な定義を引用する。

「セカイ系」とは、主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な物語に直結させる想像力を指す。高橋しんによる漫画『最終兵器彼女』、新海誠によるアニメーション『ほしのこえ』、秋山瑞人によるライトノベル『イリヤの空、UFOの夏」(二〇〇一~〇三)などがその代表として挙げられる。(宇野常寛「ゼロ年代の想像力」、p83)

 というのがセカイ系の狭義での定義ではあるのだが、セカイ系的な想像力はテン年代以降、広義において拡張され、音楽や文学や映画などサブカルチャー全体に及んでいるというのが筆者の見解である(このことについては渡邉大輔『セカイ系入門』においても間接的に指摘されており、後述する)。

 また、2021年に歌集『エモーショナルきりん大全』を上梓した歌人である上篠翔が自身の個人誌である『ちるきりん』の『序論――エモ/幽霊/疲弊』で指摘しているように、セカイ系はそれが「系」であるという点においてある種狭義での定義をすり抜け続けて拡張され続ける概念であり、それが「エモ」と地続きであるという点は重要であると考える。

 ダ・ヴィンチ・恐山が冗談めかして話しているように、「エモ」には定まった定義はない。いわば、名詞的にではなく、形容詞的に存在している。ぼくは「セカイ系」という言葉も「系」を含む以上、そのようなトーンを表す語であると感じているし、ほとんど「セカイ系」と「エモ」は地続きである、と確信してもいる。(上條翔『ちるきりん』、p31)

 また、渡邉大輔『セカイ系入門』においては藤井義允『擬人化する人間』が引用されており、そこでは米津玄師や2016年の新海誠の『君の名は』の爆発的なヒットを引き合いに出しながら、だからこそ、「セカイ系というものが終わった」と捉えることもできるが、むしろ「セカイ系的な感性」は一般化し根強く社会に残っているとも言える」ことが、指摘されている(p138を参照)。

 筆者自身も、米津玄師や新海誠など、あるいは日本のサブカルチャーにおいては「セカイ系的な想像力」が残留しており、セカイ系が終わったというよりも、むしろ日本のサブカルチャー全体にその想像力が浸透したのだと考える[Ⅱ]

3,大森靖子とセカイ系について

「家をぬけ出して僕の部屋においで 君のことなんも聞きはしないから」

 上記の歌詞は大森靖子の「VOID」(2019)の冒頭の歌詞からの引用であるが、「家(象徴的な秩序)」を抜け出して「僕の部屋(きみとぼくだけの、YOU&Iの関係)」へおいでよ、というのは極めてセカイ系的な図式であり、彼女はそのような「君と僕」という二人だけの聖域あるいは地獄を一貫して歌っていると言うことができる。

 ただし、だからといって大森靖子≒セカイ系であると安易に考えることはできず、前述の狭義でのセカイ系の定義と大森靖子の作品は必ずしも一致しない。

 第一に異なるのは、大森靖子においてはそのような「きみとぼく、YOU&I」の閉じた関係性を「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な物語に直結させることはないということである。

 しかし、大森靖子の場合は女性(あるいは主体としての「少女」の観点から見える地獄、あるいは「きみとぼく」という聖域(≒地獄)を前提とした上で、絶望しながら「駅前開発で駄菓子屋が潰れた 水風船の爆弾で 僕がこの街を壊すはずだった」(TOKYO BLACK HOLE、2016)とセカイに対してある種の破滅願望にも似た怒りをぶつけるのである。

 では、そのような怒りは何に対して向いているのか。その解は複数ありただ一つに定まるものではないが、ひとつの代表的な例を挙げるとするのであれば、ひとつは「少女≒女の子≒女性」を消費し、その「かわいく生きること」を抑圧する理不尽な暴力性なのではないか。[Ⅲ]

 この際に重要なのは、セカイ系と名指される作品において主人公は世界の命運をかけて戦う犠牲としての少女を前にしてただ葛藤し停滞するしかなかったことに対して、大森靖子はむしろ怒りを放ち、歌い、激情し、加速するという点である。

 また、特筆すべきこととして、大阪大学感傷マゾ研究会より発刊されている冊子である『青春ヘラver.2「音楽鑑賞」』に寄稿された論考である灰街令『感傷マゾから感傷サドへ 大森靖子について』において、灰街令は「TOKYO BLACK HOLE」の二重化されたサビの構造を指摘しながら、以下のことを指摘している。

 端的に言えば、《TOKYO  BLACK HOLE》はこの「地獄」を反復するCメロに向かって「やるせなさ」に満ちた世界を疾走していくような形式を持っている。しかし大森は、「地獄」という世界の表現としてはあまりにネガティブな言葉を「見晴らしの良い」という言葉で反転させ、「やるせなさ」を打ち破る否定性として捉えているように思える。(p171)

 なお、灰街令は前述の論考にて「感傷マゾ」[Ⅳ]と対比されるものとして、大森靖子に特有の「感傷サド」を概念化した。それは感傷マゾとは異なり、〈「感傷」を何重にも展開することでそこから脱出する〉運動であり、それが可能なのは〈「感傷」とい うものが外部に向かって展開され、極まっていけばいくほど自壊していくもの〉だからである。つまりそこでは「感傷」を外部に向かって展開し、加速させていく運動として概念化されているわけであるが、本稿におけるゼロ年代の「セカイ系」からテン年代における大森靖子の(後述する)「ピンク色の」ポスト・セカイ系への移行はパラレルな関係にあると考えている。

4,大森靖子と不在の「魔法」、あるいはその絶望について

 セカイ系と大森靖子との第二の相違点として挙げられるのは、セカイ系においては超越的な力や魔法(ポスト・セカイ系としての『魔法少女まどか☆マギカ』)が存在しているのに対して、大森靖子においてはそれが存在しないことである。

 2013年にPINK RECORDS(自主レーベル)からリリースされたアルバム『魔法が使えないなら死にたい」(2013)デビューした大森靖子が歌うのはそのタイトルが象徴するように、生きることの、あるいは女の子であることに伴う絶望であり、そこに「魔法」はない。

 大森靖子は「音楽を捨てよ、そして音楽へ」において、繰り返し「音楽は魔法ではない」と繰り返す。そしてこの曲の冒頭は「脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能 ダサいダンス ダウンロードって言ったら負けのマジカルミュージック」であり、歌われているのはシビアな現実である。

 大森靖子は「音楽を捨てよ、そして音楽へ」の中盤において「音楽は魔法ではない、でも音楽は」反語的とも読み取れる歌詞を残す。それは祈りにも似た思いである。音楽は魔法ではない。それでも魔法にはなりえない音楽を魔法であると信じて歌い続ける意志をそこからは読み取ることができる。

 話を戻そう。大森靖子においては「YOU&I」の閉じた関係はあっても、セカイ系の作品にあったような超越的な力や「魔法」はない。では、大森靖子はテン年代において少女あるいは女の子が、そして人が生きることに付随する絶望に何によって向き合い、戦っているのか。

 その答えは、「ピンク色の魔法」であり「かわいい」である。大森靖子は「PINK」において、「ピンク色の丸をくれ ピンク色の三角をくれ 私が少女になれるように ピンク色をくれ」[Ⅴ]と歌うのであるが、その際のギターリフはどこか鋭角的で攻撃的ですらあり、歌い方は叫ぶような、激情を秘めたような、あるいは怒りを放つような歌い方である。

 大森靖子は「メンヘラ」という概念を象徴する歌手として見られることがあるが、その際の「メンヘラ」が精神疾患あるいは社会に順応できないこと、生活の苦痛や絶望すべてを含むのであるとすれば、「かわいい」あるいは「ピンク」という概念は、それらの苦悩すべてを含めた上で歌によって反転し、加速し、単なる「かわいい」ではなく、それらすべての絶望を生き抜くための武装としての「ピンク」および「かわいい」へと塗り替えられる。

 大森靖子にとっての「最終兵器」があるとすればそれは剥き出しのライブパフォーマンスであり、ライブハウスという空間における演者と観客という(YOU&I)の集合体であり、絶望を生き抜くための、生々しい絶望や病みや生存のための流血をも含んだ、「ピンク色」である。

5,ゼロ年代とテン年代の「少女」について――『銀杏BOYZ』を中間項として

 前述のように、ゼロ年代のセカイ系作品においては少女は犠牲となる存在であり、客体として表象されていた。

 ここで、ひとつの中間項として、2003年に結成され、2005年にアルバム『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』『DOOR』をリリースしているロックバンドである「銀杏BOYZ」を用いる。なぜなら、銀杏BOYZは時代性とそのテーマ性において極めてセカイ系的なバンドであるからである。

 たとえば、銀杏BOYZは「援助交際」において、

 「あの娘を愛するためだけに僕は生まれてきたの」(中略)
 「あの娘が淫乱だなんて嘘さ」
 「僕の愛がどうか届きますように」
 「ああ 世界が滅びてしまう」

 と歌う。ここでは「YOU&I」の関係が直接的な「世界の終わり」と結びつけられることはなくとも、「世界の終わり」と同等の意味を持つものとして歌われている点で、極めてセカイ系的である。 

 このような銀杏BOYZにおける少女表象を見ると、

  僕にとって君はセーラー服を着た天使
  色白で無口でどこか寂しそうな女の子 
  もしもモーニング娘。に君がスカウトされたらどうしよう
  もしも君がいないと 僕は登校拒否になる」(「あの娘に1ミリでもちょっかいだしたら殺す」)

 というように、銀杏BOYZが歌う「女の子」というのは、一方的に神聖化された偶像であり、それも、到達不可能な幻想、願望、理念じみたものをすべて結晶させた偶像である。

 もっとも、そのような偶像としての「天使のような」あの娘は「淫乱」であり、「あの娘は綾波レイが好き」において「綾波レイが好きなあの娘」が「ハウスのDJ」につかまって、「便所でセックス最高さ」と歌われるように、偶像は自壊し、破裂していくという二面性を持つ。

 ともかく、銀杏BOYZにおいてはそのように客体的な偶像として描かれていた「少女」は大森靖子においてはむしろ主体として引き受けられ、ドロドロとした「女の子」の内面と、少女であり続けられない主体のあり方(「私が少女でいるためには みんなが優しいことが必要だよ」〈「PINK」より〉)が歌われる。

 この際に重要なのは、大森靖子が元々、銀杏BOYZの大ファンであったという事実である。

 大学に入ってから2年間、ずっと銀杏BOYZのライブすべてに通っていた。女の子を神聖化するしている歌詞に夢を抱けた。ボーカルの峯田さんが傷つきながら自分にぶちこむ虚像が、大好きで美しいと思っていた。演じてでも、無理をしてでも、求められた夢を見せ続けてくれる人が好き。(中略)彼らは、本物じゃなくてもいいんだって、本物じゃなくても本物になれるんだってことを、教えてくれる[Ⅵ](大森靖子+最果タヒ『かけがえのないマグマ』、p83)

 大森靖子は女の子を神聖化する歌詞、そして銀杏BOYZ的な(YOU&I)の関係の絶対性というセカイ系的想像力を受け継ぎながらも、自らが歌を作り、歌う際には銀杏BOYZと同じような神聖化を必ずしも行わない。その際には生々しい主体としての「少女」の立場からそれを解体し、破壊し、再構築し、引き受けているのである。

6,結論――星空の遠さに対する反逆、「ピンク」色で抗する〈超〉歌手としての大森靖子

 これまで、第一章では「かわいい」のキラキラした部分だけではなく、「かわいい」の孕むドロドロした部分を歌いながらも、それら不可分に結ばれたすべてを肯定する歌手としての大森靖子を紹介した。

 第二章では従来的なセカイ系の定義と、しかしそれが「系」であるという点において「エモ」の概念の性質に近く、米津玄師や新海誠などの例を出しながら、「セカイ系が終わった」というよりも、むしろ日本のサブカルチャー全体にその想像力が浸透したのだと考えた。 

 第三章では大森靖子とセカイ系には類似点が見られるが等号で結ぶことはできず、二つの相違点があることを指摘し、第一の相違点を指摘した。第一の相違点とは、大森靖子においては「きみとぼく、YOU&I」の閉じた関係性を「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な物語に直結させないということであり、付け加えるのなら、セカイ系と名指される作品において主人公は世界の命運をかけて戦う犠牲としての少女を前にしてただ葛藤し停滞するしかなかったことに対して、大森靖子はむしろ怒りを放ち、歌い、激情し、加速するという点である。さらに言えばこの際、ゼロ年代の作品において消費される側であった少女ではなく、自分自身が「少女」を主体として引き受けている点を指摘した。

 第四章では第二の相違点として、ゼロ年代の作品にはあった超越的な力や魔法を大森靖子は持たないということであり、では大森靖子は何を用いて戦っているのかという問いに対して、〈絶望を生き抜くための、生々しい絶望や病みや生存のための流血をも含んだ、「ピンク色」〉という解を与えた。

 第五章では、大森靖子もファンであったロックバンドである銀杏BOYZを中間項に置くことで、大森靖子をセカイ系へと接続し、その上で銀杏BOYZのように少女を神聖化し、偶像化するのではなく自ら生々しい主体としての「少女」の立場からそれを解体し、再構築しているのだと結論づけた。

 最後に、前述の銀杏BOYZは星空をロマンチシズムとともに描く。

銀河鉄道の夜 僕はもう空の向こう 
飛び立ってしまいたい あなたを想いながら(銀杏BOYZ「銀河鉄道の夜」、2005)

君を乗せた宇宙船が 夕暮れの彼方へ消えて
光るプラネタリウム いっそのこと
僕を吸いこんでよ(銀杏BOYZ「夢で逢えたら」、2005)

 ここでは、届かないこと、遠くにあることが繰り返し歌われ、すなわち対象との《遠さ》こそが聖性を生み出している。これはゼロ年代セカイ系の新海誠「ほしのこえ」において二人が宇宙と地球で離れ離れになることの、その遠さのエモとアナロジーで結ぶことができる。つまり、《遠さ〉というセカイ系的聖性があり、エモがある[Ⅶ]

 ここで、大森靖子のライブでは最後に「オリオン座」(2016)という曲を客も含めて全員で合唱するのが恒例となっている。これはゼロ年代のセカイ系の《遠さ》という聖性への反逆であると捉えることができる。ライブハウスにおいて大森靖子と観客は複数形のYOU&Iとなり、その場において自らがオリオン座そのものになる。

  穢れさえ武器に 明朝体を空へ投げたら
  夜が割れて降り注ぐ神様の汗
  どうせあたらないミサイルで威嚇する
  心の黒い穴は同じ誰かへと繋がるトンネル(大森靖子「オリオン座」)

 そのとき私たちはひとつのオリオン座となり遠さは近さへと反転される。大森靖子はYOU&Iというセカイ系の基本的な枠組みを過剰なまでに受け継ぎながら、同時にセカイ系の《遠さ》に反逆し、ゼロ年代においては客体であった少女を「主体」として受け入れながら、キラキラなものもドロドロなものもロリータ服も血液もすべてを併せ持つものとしての「かわいい」によって、歌い、戦い続けている《超》歌手なのである。


【参考文献】
・宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、2008、早川書房
・大塚英志『感情天皇論』、2019、ちくま新書
・大森靖子『超歌手』、毎日新聞出版、2018
・大森靖子+最果タヒ『かけがえのないマグマ』、毎日新聞出版、2016
・上篠翔『ちるきりん』、2021
・黒木萬代『世界のど真ん中でかわいいを叫ぶけもの』(「ユリイカ平成29年4月号 大森靖子」、青土社、2017に収録)
・灰街令『感傷マゾから感傷サドへ 大森靖子について』(『青春ヘラver.2「音楽鑑賞」』に収録)、2021
・渡辺大輔『セカイ系入門』、星海社新書、2025

[i]木萬代.は『世界のど真ん中でかわいいを叫ぶけもの』(「ユリイカ平成29年4月号 大森靖子」に収録)にてドゥルーズ&ガタリの「うまく愛する」ということは男性か女性のいずれかであり続けることではなく、各個人の性から、その性に固有の少女を構成する微粒子、速さと遅さ、流れ、そしてn個の性を抽出することだ」という文章を引用した上で、それはすなわち「かわいい」のことではないか、と指摘している。

【脚注】
[i] このような態度はどこかニーチェが唱える永劫回帰において人生は永遠に繰り返されるものであり、世界は苦痛の反復としてのみ現れるのだけれど、それでもある一瞬を肯定するという「超人」の態度と似通って見える。女の子であることには苦痛が付きまとうのだけれど、そのような苦痛や苦悩と鎖で不可分に繋がれているキラキラした瞬間を絶対的に肯定すること。

[Ⅱ] あるいは大塚英志が『感情天皇論』第二章『セカイ系としての「純粋天皇」――大江健三郎を平成の終わりに読む』で「天皇でも日本でもいいのだが、今や国民総セカイ系化(つまり感情天皇制化)した日本にあって、大江の不敬文学は何の違和も」もたらさず、正確で下手をすれば心地良いその自画像となる」と述べているように、セカイ系としての天皇を含め、私たちはセカイ系的な想像力の中を生きているのだと言うことも可能であるように思える。

[Ⅲ]大森靖子は最果タヒとの共著『かけがえのないマグマ』において、小六のときに知らない人にレイプされて何が何かも分からないままに初体験を終えてしまったことを語っている。大森自身は「ショックだったとか、トラウマになったとか、そういう感じではなくて」(p14)と語ってはいるものの、根源的な世界の暴力性として記憶されているであろうことは推測できる。

 大森は「全女性のすべての気持ちを歌って肯定しよう」(『超歌手』、p54)と語り、それを阻むものと戦う。そして、この態度は大枠としてはフェミニズム的な立場とも軌を一にすると言うことができるが、注目すべきは大森が自身の著書『超歌手』において、「フェミニズムは私のトラウマだから、目をそらしたくなくて、あの日からずっと追いかけている」(『超歌手』、p58)と語られることである。

この背景にはいくらかの込み入った事情が存在しているのだが(その事情に関しては柴田英里『“やさしさ”によって見棄てられる総ての者に捧げるあいらぶゆー 大森靖子のフェミニズム』〈「ユリイカ平成29年4月号 大森靖子」に収録〉を参照)。ともかくそのような一定の事情のもとで、大森はテン年代後半のMeToo運動に対して、「性暴力は当然なくすべきだし、被害者には私なりに寄り添いたい。そういうパワーを持った作品を作ることができている自負もある」(超歌手、p58)と前置きした上で、「MeTooはやめましょう。人と同じ人生はない。誰かとまったく同じ心もない」(『超歌手』、p62)と語り、むしろ「私の場合は」「InMyCase」をきちんと表現できる人間が増えればいいな、と締めくくり、「個人的なもの」の領域を守る態度を取る。

[Ⅳ] 「感傷マゾ」とは、原義としては「ヒロインが過酷な状況に置かれる物語作品を消費されることに罪悪感を感じ、その罪悪感が転じて当のヒロインに糾弾されたいという願望を抱く嗜好」だが、広義にはフィクショナルな青春や青春へのノスタルジーと自身の暮らす現実との差に自己嫌悪と快楽を両義的に感じる性癖である『青春ヘラver2』p167を参照。

[Ⅴ] 黒木萬代.は『世界のど真ん中でかわいいを叫ぶけもの』(「ユリイカ平成29年4月号 大森靖子」に収録)にてドゥルーズ&ガタリの「うまく愛する」ということは男性か女性のいずれかであり続けることではなく、各個人の性から、その性に固有の少女を構成する微粒子、速さと遅さ、流れ、そしてn個の性を抽出することだ」という文章を引用した上で、それはすなわち「かわいい」のことではないか、と指摘している。

[Ⅵ] この際、大森靖子は「本物じゃなくても本物になれるんだってことを、教えてくれる」人の一人としてアイドルである道長さゆみの名前も挙げている。

【Ⅶ] セカイ系と親和性の高いバンドが星空をロマンチシズムとともに描いており、そこでは届かないこと/遠くにあることが繰り返し歌われており、つまり対象との《遠さ》こそがエモの火種になっているということは歌人の上篠翔さんとのDM(ダイレクト・メッセージ)でのやり取りによって気づかされたことなので、ここに感謝とともに名前を挙げさせていただきます。


文章:二枚貝双川ふたがわ望)

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