執筆者:時田桜
恋人は、別の誰かでも良かったのではないか。
この問いはふとした瞬間に浮かび、そのたびに慌てて打ち消される。愛とは「この人でなければならない」という感覚のことだと、私たちは文学からずっと教わってきたからだ。代替可能な相手への感情を、愛と呼んではいけないことになっている。だが、それは本当だろうか。この問いを考えるための古典小説として、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読み直したい。
この小説には「重さ」を生きる女と「軽さ」を生きる女が登場する。
テレザは重い。自分の価値の証明を求め続け、若さという価値をいつか失うことに怯え、恋人との出会いを運命として抱きしめ、そしてその重さに、ほかならぬ彼女自身が絶えず苦しめられている。
サビナは軽い。文脈を、歴史を、恋人たちを裏切り続けることで自由を確保し、人に見られ、その規定の中に固定されることで自分を失うことを何より恐れている。
この「重さ」と「軽さ」を流行りの言葉に置き換えれば、約40年前のこの小説は、愛着障害における不安型と回避型をすでに書いていたことになる。重く愛するとは「この人でなければならない」と信じることであり、代替不可能性そのものである。
しかし注意したいのは、この小説の中で、テレザの重さは解釈によって作られているということだ。「あの出会いは六つの偶然の産物にすぎない」と、小説は執拗に確認する。テレザはその偶然の連なりを運命として解釈することで、はじめて恋人を愛することができる。この小説で運命は、発見されるものではなく、解釈によって製造されるものとして書かれている。
一方で、題名が示すとおり、この小説の核心は重さではなく、軽さのほうにある。その軽さを最も徹底して生きるのがサビナであり、彼女は作者クンデラ自身の生き方が投影された人物でもある。祖国を捨て、亡命し、あらゆる文脈への帰属を裏切り続けたクンデラは、自分の生き方のうち最も人に理解されにくい部分を、彼女を通して表現した。そしてこの作家が全篇を通じて最も表現したかった概念こそ、軽さを生きたサビナが最も憎む概念「キッチュ」である。キッチュとはすなわち感情を他人と共有することで本物にしようとする行為である。クンデラはそれを、皆で同じ感動に涙を流す全体主義の美学として描いた。だがこの定義の射程は、広場のパレードに留まらない。偶然の恋愛を運命的に解釈し、文章にして差し出し、共有されることで本物にしようとする行為、つまり「文学的な恋愛」も、同じ構造をしている。運命とは、文学が発明し流通させてきた代替不可能性のパッケージであり、その文法に囚われた人は、もはやそのようにしてしか人を愛することができない。テレザの重さとは、文学に教わった通りに愛することの苦しさだ。サビナが裏切り続けたのは、人というより、この文法のほうである。彼女は、画家だが、自分自身の内面を描くことはない。その代わり描くのは、表面の奥に誰にも捉えられない自分がいるという二重構造をモチーフにした作品達である。それは、共有によって本物にされることへの拒否だ。偶然を運命と書き直して共有するたび、愛は本物に近づくのではなく、キッチュに一歩近づいていくのだ。
なぜ、この小説の中で、キッチュをこれほどまでに明確に主張しなければならなかったのか。私の考察はこうだ。
回避は普通、親密さへの恐れとして、治療されるべき欠陥として語られる。人には不安と回避がある、という世間の認識の中で、回避は選択ではなく症状の側に置かれている。だがキッチュという概念が立てば、話は反転する。サビナが、そしてクンデラが避けてきたのは、親密さそのものではなく、感情を共有によって本物化する装置のほうだ、と言えるようになるからだ。キッチュとは、回避を病理から倫理へ書き換えるための、根拠である。それが万人の正解だと彼は言わない。小説の中で、軽さを生きたサビナを最終的に空虚の壁に立ち向かわせたのは彼自身だ。しかし、そのときのクンデラにとって、回避は選ぶに値するものだった。キッチュの明確な定義は、その選択の弁明として、この小説のいちばん深いところに据えられている。
一方で、運命の文法を手放せない人が多くいるのは、誰かを大切に思うことが、失いうるものを持つことと同義だからだ。私には長いあいだ、両立不可能に思えている二つのものがある。「これを失っても自分は生きていける」という実感と、「これは失いたくない大切なものだ」という感情である。バランスの問題だとよく言われるが、そもそもトレードオフですらなく、論理的に両立不可能な二つの態度にしか思えなかった。そして単純に、不安型は「生きていけない」側のポジションを取り、回避型は「大切ではない」側にポジションをとる。正反対に見えて、同じ不可能をそれぞれ誠実に解いた、二つの解だ。論理としては、どちらも一貫しているし、それぞれにその解を選ぶ根拠もあるだろう。しかし現実を生きようとすると、この単純明快な解が、なぜか正解ではなくなってしまう。テレザは大切さを守るために「生きていけない」ほうへ全体重を預け、その重さで自分と関係を潰しかけながら生きる。サビナは軽さを守るためにすべてから距離を取り、その結果裏切りの果てにある恐怖やさみしさに直面し軽さに生きる限界を感じる。二人の女は、同じ不可能の二つの解を生きて、同じように行き止まる。
だとすれば、戻るべき場所は前提である。この二つの解が前提とする仮定は何か。それは、「大切さは、失ったときの壊れ具合でしか測れない」ということである。この仮定を採用した瞬間に矛盾は発生し、不安と回避はその二つの解として自動的に生成される。そして気づくのは、運命の文法もまた回避と同様に、痛みの先取りをしているということである。「この人でなければならない」とは、この人がいなかった世界との比較であり、失ったときの痛みの先取りであり、要するに反実仮想で愛を測る技法である。だが人生は一度きりで、選ばなかった生との比較は誰にも許されていない。小説の冒頭に置かれた永劫回帰の問いが示すのはそのことだ。Einmal ist keinmal、一度は数のうちに入らない。反実仮想の痛みは、この宇宙では原理的に検証できない。一度きりの生に与えられている尺度は、現在形しかない。いまこの瞬間、どれだけ注意を向けているか。もっともこの正論が、失うことに怯えている最中の実感からは綺麗事にしか見えないことも、私は知っている。クンデラはもちろんこの小説の中で矛盾を解決することはない。キッチュを憎むこの作家が小説の中で書いたのは、しかし、運命を信じる人々の、自分が生きなかった重さの生だった。
私は、冒頭の問いにもう答えを探さない。恋人は別の誰かでもよかったのか。それは反実仮想であり、一度きりの人生には、答えの存在しない問いだからだ。答えられないことは、もう欠陥ではない。比較の許されない生の中で、私にできるのは、運命を書かないまま、現在形で愛することだけではないか。

コメント