潮騒ボトル/四流色夜空

著:四流色夜空

 だれもいない砂浜で夕陽を見るのが好きだ。

 水平線に赤い塊が接して、境界が曖昧になって、海一面が燃えている。黒い影になって鳥たちが飛んでいく。太陽が最後の力を振り絞って景色を染め上げる壮大な光景を眺めていると、心が次第に落ち着いていく。

 やがて夕陽が完全に海の向こうに落ちてしまうと、私はお尻の砂をぽんぽんと手で払って立ち上がった。もう帰らなきゃ、夕食の時間が近い。海に背を向けると、足元に半分埋まったガラスの小瓶があるのを発見した。薄墨色の空に透かして見ると、透明なガラスの向こうに瞬きはじめた星が覗けた。

 帰りのバスの中で、コルクの蓋を外してみる。鼻を近づけても特に匂いはしないので、そっと耳に近づけた。ガタガタと揺れるバスの振動の奥にザザァ……と波の寄せる音が聞こえた。私は首をひねって、小瓶を耳から離したり近づけたりした。さっきまで海にいたから、波の音が鼓膜に染みついているだけかもしれない。

 帰宅して夕食を食べ終わってから、ソファでテレビを見ている妹に小瓶を渡してみた。妹は耳元にそれを当ててみてから、しげしげと瓶を見つめて「なんの音もしないけど?」と言った。妹は私に瓶を返すと、お笑い芸人の映るテレビに視線を戻してゲラゲラと笑った。

 お風呂を済ませて、自室のベッドに寝転がって天井を見る。宿題も終わってるから特にすることもなく、瓶のコルクを外した。ザザァ……と波の音がした。

 その音を聞いていると、ゆっくり意識が遠のいていき、知らないうちに眠っていた。

 やる前から嫌な予感はしていた。

 天井の高さの際立つ体育館のコートで、勢いよく飛んで来るボールへ手を伸ばす前に目をつむってしまい、レシーブに何度も失敗した。チームの女の子がレシーブに成功してトスを上げる番が回ってきても、私の両の手のひらがつくる菱形の構えはボールの芯を捉えきれずに、攻撃に繋がらないばかりか、自滅点を増やしていった。最初はやさしく響いていた「ドンマイ!」の声が、中盤からは「あーあ」という憂いと諦めの気配をにじませるものとなった。表立って責められることもなかったが、明らかに私の周囲の気温が下がっていくのを感じた。

 体育館を出ると、ムッとする真夏の熱気が身体を包んだ。別チームにいたあやかが、私の肩を軽くタッチした。

「おつかれー!」

「あ、うん。おつかれさま」

「めっちゃ汗かいたー、もう最悪。こんな暑いのに体育やるのバカだよねー」

 あやかが手で顔を仰ぎながら、たははと笑った。私と違ってあやかはスポーツ万能で、私と同じ帰宅部のくせに体育のチーム決めのときには重宝がられる。

 真っ青な空に飛行機が白線を引きながら飛んでいく。

「……なんか嫌なこと言われた?」

 あやかが心配そうに訊いてくる。

「えー、別にー」

 私はぽつりと答えた。

「あいつらさー、自分たちの方がちょっとできるからってすぐ他の子を見下したような態度とるんだよねー、あんまり気にしちゃだめだよ」

「……そんなんじゃないよ」

 私はあやかの気遣いが重たくのしかかってくるようで、気づけば足が止まっていた。いやフツーに私が悪いだけだから、と思った。でも言わなかった。あやかに言っても通じないだろうなって思ったから。自分の失敗によってチームの雰囲気が壊れていく経験なんてしたことがない、あやかには。

「どうしたの、大丈夫?」

 あやかが振り返って、手を伸ばしてくる。

 健康で、やさしい手。

 失敗しない手、うまくトスできる手。

 逆光であやかの表情が真っ黒になるのに耐えきれず、私は

「もういいって」とその手を払いのけてしまった。

「保護者気取りはやめてよ……どうせあやかには分かんないよ!」

 私は真っ黒な影の横をすり抜けると、校舎の中へと駆け出していた。

 教室に着く頃には後悔していた。けれど卑屈の虫が頭と心に巣食っていて、遅れて教室に入ってきたあやかの顔をまともに見ることさえできなかった。嫌われたかもしれないと思うと、心が鋭い針で刺されるようにズキズキと痛んだ。あやかは悪くないのにひどいことをしてしまった。最低だ……最悪だ……。いつもなら机のそばに近寄ってきてくれるあやかと二人で、あれこれお喋りして過ごす休み時間も、私は一人で過ごすしかなかった。あやかは時折ちらちらとこちらの様子を窺ってきたが、私がそれに気づくと、すぐさま気まずそうに顔をそむけられてしまった。授業が全部終わったら、一緒に帰る途中にでもタイミングを見つけて、ちゃんと謝ろうと私は思った。

 けれどそうはならなかった。

 放課後になると、声をかける間もなくあやかはそそくさと荷物をまとめて教室を出て行ってしまった。その後ろ姿を見ていると、すうっと頬を伝う涙が外気にふれてぬるくなるのを感じた。世界から音が失われたのだ。

 悲しい気分を家族に悟られるのが嫌で、夕食のときもにこやかに表情を装っていたが、味はまったく分からなかった。一人で湯舟に浸かると、感情が喉元をせり上がってきて困った。私は声が出ないように、顔を半分お湯に沈めて泣いた。人見知りな私をいつも気にかけてくれたあやかの顔が浮かんだ。あやかのやさしい目元、いたずらそうな口元、細くきれいな指先……。涙は湯に溶けて、心拍数が上がった。頭がぼおっとして、身体中の力が抜けた。

 布団の中で目を閉じても、穏やかな眠りはなかなかやって来なかった。明日どんな顔でどう声をかければいいというのだろう。それを考えると胸が痛んで、最悪の未来予想図がぐるぐると目の裏で展開されてしまうのだった。

 私はそっと棚の上から小瓶を手に取って、コルクの蓋を外した。布団に身を横たえながら、それを耳元に近づけると、夜の緊迫した静寂にザザァ……とさざ波が打ち寄せた。

 ザザァ……ザザァ……と繰り返される波の音をお守りのように耳のそばに握りしめていると、心は次第に落ち着きを取り戻していった。時計の針の音よりも小瓶から流れる波の音の方が、私のことを理解してくれる気がした。

 眠りとの淡いすき間に、あやかの声を聞いた気がした。あやかは暗く冷たい場所で

「ごめんね……嫌なこと言うつもりじゃなかったの……」

 と、しくしく泣いていた。海の底へ沈む手紙のようにゆらゆらと、途切れ途切れにあやかの声は聞こえてきた。ザザァ……ザザァ……と鳴る波と波とに搔き消されそうになりながらも、あやかの声は私の耳元へ泳ごうとしていた。

 あまり眠れずに目覚めると、まだ五時を回ったところだったが、外はすでに明るかった。布団にいると心がだめになりそうだったので、パジャマ姿のまま外の空気を吸いに出た。

 あやかとは小学校のときからの幼馴染で、家も近い。あやかは服飾の専門に行く費用を貯めるために、放課後はほとんどアルバイトに行ってるらしい。他人と関わるのが苦手な私はバイトもせず、かといって部活もせずに、海にばかり行っている。だれもいない砂浜で夕陽を見るのが好きだ。子どもの頃にはよくあやかとふたりで海で遊んだ。私たちは海の子どもだった。綺麗な貝殻を拾ってお互いにプレゼントしたり、引き潮のときに現れる道を辿って洞窟を探検したりした。学校の勉強とか人間関係とか、将来の夢とかなりたい自分とか、そういうのが押しつけられる前、夢中になって日暮れまで遊んだ海をあやかは今でも覚えているだろうか。

 バス停のベンチは背もたれの板が割れかけている。まだ当分やって来ないバスのベンチに腰かけて、空を見上げると、もう昼くらいに明るい空のなかに白い月が残っていた。遠く儚い光へ手を伸ばそうとすると、懐かしい潮の匂いがした。

 あやかが教室のドアに姿を現したとき、弾けるように私は椅子を蹴って駆け寄った。色んな思い出が走馬灯のように流れていって自分を抑えられなかった。自分から離してしまった距離は、自分以外には埋められないから。そのまま両手を回してあやかに抱きつくと、また涙が出てきそうになって、でもその前にどうしても伝えたくて、私は喉の奥から声を絞りだした。

「八つ当たりしてごめんね、あやか……私が悪いの……ご、ごめんなさい……」

 あやかはいきなりのことに呆気にとられた様子だったが、やがて私の背中にまわした両手に力が入るのが分かった。

「ううん。こっちこそ、言い方がよくなかったかも。ごめんね」

 お昼の時間、私とあやかはお弁当を持って屋上へと向かった。青い空の向こうにもくもくと入道雲が沸き立っている。給水塔の日陰のところでお弁当を食べていると、風が心地よく吹き抜けていった。白い月はもう見えなくなっていた。蝉の合唱が聞こえた。世界に音と光が戻っていた。私は試しにポケットから小瓶を出して、あやかに渡してみた。あやかはコルクの蓋をポンと抜くと、目を閉じてそっと耳元へ近づけた。

「あっ!」とあやかは声を上げた。「波の音が聞こえる」

「ほんと?」

 あやかは薄くまぶたをひらくと、にっこり笑って

「ふたりだけの海だね」と言った。

 もうすぐ夏休みがはじまる。

(了)

コメント

タイトルとURLをコピーしました