死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
──太宰治「葉」
六月
不思議な夜だった。月明かりだけで読書をしていたはずなのに、いつの間にか雨が降り始めていた。
そのとき僕が思い出したのは、月にもあるという「海」の話だった。実際は月の表面上が暗く見えるというだけで、本当に水があるわけではないのだけれど、この雨はきっと月の海から零れて、そのまま東京にまで落ちてきたのだと直感的に思った。
だからなのだろう、雨には月光の匂いが混じっていた。
「死のうと思っていた」
太宰はそう書いていた。彼は秋を見ることなく死んだ。もう何度読んだか分からない『晩年』の文庫本を取り出し、おもむろに読み始める。決してこの本が好きなわけではなかった。ただなんとなく、眠れない夜はベッドに腰掛けながら、最低限の灯りで唯一持っている小説を読むのが習慣になっていた。
大学生になって上京するにあたり、荷物はできるだけ少なくしようと思った。大荷物で引っ越すのは大変だし、なにより持ち物が多いと、その重みで東京を離れられないと思ったからだ。その一冊に、なぜ太宰を選んだのかは覚えていない。
最近気付いたことだが、この街は正気じゃない。みんなそれに薄々気付きながら、知らないふりをしている。その事実を肯定した途端、狂った街に住む自分も狂った人間だと認めることになるからだ。けれど、これは別に東京に限った話ではないのかもしれない。親友から女を寝取って自殺させる小説が高校の教科書に載り、酒と薬と女に溺れていくだけの物語がこれだけ売れる国で正気を保つのは、なかなか難しい。
破滅を美しく描く才能は、美しく破滅する才能を必要条件とする。それだけ持って、太宰は生まれた。でも、ファム・ファタールに溺れる男は、破滅するだけの何かを持っている時点で恵まれている。それは地位や名誉、あるいは優れた容姿だったりするが、いずれにせよ破滅するのにも資格がいるのだ。何も持たない人間が何かを失うことはできない。もしかしたら、人間の破滅願望は、自分が「破滅に値するだけの何かを持っている」側だと信じたいがゆえに沸き起こるのかもしれなかった。そして、そんなことは今の僕にはどうでもよかった。
部屋の隅で、スマートフォンが青白く点滅していた。重い腰を上げて確認してみると、Discordの通知が来ている。
かしゅー — 今日 23:53
でんわできる?
僕は少しだけ迷ってから、充電していたイヤホンを取り外した。今夜も長くなるぞ、と思った。数センチだけ開いたカーテンの向こうに資本主義が揺らめいていた。飲みかけの酒を飲み干して「いいですよ」とだけ返信すると、数秒後には着信音が鳴った。
「もしもし」
「聞こえてますよ」
「ごめん、寝るとこやった?」
「いや、僕も眠れなかったので」
「そっか。よかった」
いつ聞いても、深夜には甘すぎる声だと思う。この人と喋るたび、僕は高校の自販機に売っていたいちごミルクを思い出す。いったいどういう回路でそうなるのかは分からない。ただ一つ言えるのは、この甘い声が驚くほど本人のイメージに当てはまっているということだけだ。
僕が夏秋夏(@kasyuna_2)さんと知り合ったのは、ちょうど二ヶ月前のことだった。
四月
ある晩、いつも通りツイッターを眺めていると、タイムラインが一つの話題で持ちきりになっていた。どうやら、特定の界隈で有名なイラストレーターが、ファン向けのディスコードサーバーを開設したようだった。
その主である、うなぎ(@unaunagi_)先生を、僕はかなり前からフォローしていた。知ったきっかけは一年ほど前にバズった彼のマンガを見かけたから。それ以降、彼の描く脆くて危うげな女性のイラストが好きになり、最近では自分でも似たようなテイストのイラストを描き出すほどのファンだった。
サーバーに参加するチケットは、彼のFANBOXにあるらしい。月に一〇〇円以上支援すると自動的に招待リンクにたどり着くことができ、そこから入るようだ。当然、僕は既にうなぎ先生を支援していた。学生のため五〇〇円と少額ではあるが、月末に僕のクレカから引き落とされている。「うなぎ王国」と名付けられた空間に招待されていた。見たこともない王国行きのチケットを以前から持っているというのは、なんとも不思議な気分だった。
やあ、伊織君。ピザ持ってきたよね?
海外アプリならではの独特なコピーで迎えられたそのコミュニティには、既に三〇人ほどの参加者が揃っていた。チャットルームにはひとりごとを呟く部屋、雑談部屋、良かった服を載せる部屋まである。なかでも一際目を惹いたのが、「お悩み相談室」と銘打たれたルームだった。なんとなくタップしてみると、想像以上に重苦しいワードが並び立っていた。
ここ最近、辛いことがありすぎて生きる意味がわからなくなってしまって、かといって死ぬ勇気もないんですけど、どうすればいいでしょうか……
この一言だけでここがどういう場所なのか、理解する。ここ数日、眠れない日々を過ごしている僕としては、この問題は他人事ではなかった。夜中に突如として襲ってくる〝アレ〟が言語化されている文章は見た目以上にグロテスクで、思わず目を逸らしてしまう。このレベルのパンチラインが飛び交う空間に、僕の心は耐えきれるのだろうか。
しかし、落ち着いてスクロールしていくと、徐々に印象は変わっていく。顔も知らない第三者に話すには切実すぎるお悩みが投下されたかと思えば、その下にはいくつかの温かい返信がつく。フォロワーがここを「真のインターネット」と形容したのは、あながち間違いでもないらしかった。
既に謎の居心地の良さを感じていた僕は雰囲気に乗せられ、お悩み相談室にひとつの投稿をして早々と眠りについた。なんだか、今日はすぐに眠れる気がした。
今後の人生、自分が幸せになる未来がまったく見えなくて、毎日死にたいです。
*
生きている間、終始「出遅れた」という感覚がある。第一志望の高校に落ちた春も、惨敗だった初めての中間テストも、サークルに入らず過ぎ去った三年間も。大学四年の四月になってもまだ「ガクチカ」を書けない僕が出遅れているのは、きっと就職活動だけじゃない。取り返しのつかない何かに追いかけ回され、だんだん息も切れてきた。
四年という時期もあり、二〇〇人以上を収容する講義室にはスーツ姿の学生も増えてきた。ここにいる全員の気が狂っていると思った。埋立地なんか行かずとも、僕にはこの街が蜃気楼の様に見える。
ポケットに入っていたスマホが震えた。先週面接を受けた企業からのお祈りメールだった。授業はまだ三〇分残っていたが、とても受ける気にはならない。こんなことなら来なければ良かった。
隣で授業を聞いていた同じくスーツ姿の知り合いに「帰るわ」とだけ伝え、薄暗い廊下を歩き始める。小学生のときは、早退や遅刻がちょっとしたお祭りだった。誰もいない廊下を一人闊歩しているとまるで世界に自分だけみたいな感覚がして、永遠に教室に着かなければいいのにと思っていた。いくら高級な料理だろうと、寝坊した朝に食べる冷めた味噌汁以上に美味しいものを僕は知らなかった。それを超える経験も、きっとこの先なかった。
*
倉庫のバイト終わりはいつも、くたくたになって帰宅する。四時間の労働。時間だけで言えば一般的な社会人の半分だ。けれど、この疲労感が雄弁に語っている。僕によほど社会適正がないこと。あるいは、そもそも労働とは苦痛であること。果てには、毎日八時間働くような輩は頭がイかれてしまっていること。大学を早退してもバイトがあるなら、そりゃ特別感もないわけだ。
散らかったベッドにダイブすると、ふと昨夜のことが頭を過った。昨日、一方的に吐き出した呪詛のような独り言。今はどうなっているのだろうか。あの場にさまよっていた苦悩や苦痛は成仏してしまったのだろうか。
アプリを開くと、新着通知の多さに驚く。軽くめまいがする。人数は倍増したらしく、六二人がサーバーに移住していた。
案の定、「お悩み相談」のルームには大量の投稿が死屍累々と積み重なっていて、自分の独り言もとっくに「過去」になっていた。しかし、よく見てみると、律儀に返信してくれた人もいるようだった。
毎日死にたいのわかる(T_T) 辛いよね……
事実、この返信で僕は何一つ救われなかったし、問題は一切解決しなかった。僕は今でも内定ゼロのままだ。けれど、右手の人差し指でそっと傷口に触られたような、痛いのに優しい感覚があった。
知らないアニメのヒロインが切り取られたアイコンの横には、〈かしゅー〉と名前が表示されている。それだけで、なんだか泣きだしてしまいそうだった。
八月
「オフ会?」
「そう、オフ会。ねぎしが東京来るから、こっちでやろかと思ってん」
うなぎ王国には国ができていた。人がいて、共同体があって、政治も喧嘩も起きる。けれど、ここにいる人たちは心や腕に傷を抱えていて、それを舐め合いながら寄り合っているように見えた。僕はといえば就活を半ば諦め、大学にも行かずに夜な夜なApexに興じている。三人で遊ぶのが基本のゲームなので、必然的にメンバーは固定化されていった。よくパーティーを組む三人でオフ会をしないかと彼女から誘われたのは、八月の上旬だった。
「かしゅーさんは仕事じゃないんですか」
「ええねん、なんぼでも休めるから」
「ならいいですけど。ねぎしさんはなんて?」
「絶対行くって言うとった。アイツもフリーターやから暇なんやろ」
「へぇ。じゃあまあ、予定空けときます」
知り合って一ヶ月ほど経ってから、かしゅーさんのフルネームが〈夏秋夏〉だと知った。「かしゅーなっつ」と読むらしい。ツイッターのユーザーネームも〈かしゅー〉なので、知るわけがなかった。
また、文面からは分からないが、実際に話してみるとかなり正統派の関西人だったりする。出身は京都で、両親が大阪で……と話していた気がするが、細かいことは忘れてしまった。覚えていることと言えば、今は千葉に住んでいて、派遣社員として事務の仕事をしているということくらいだった。
「でもちゃんと話せるかなぁ。自分、めちゃくちゃコミュ症だから」
「大丈夫やって。ウチとねぎしとこんだけ喋っとるんやから」
「そうは言ってもリアルは違いますよ。それに、二人とも女の子だし」
「えっ、ウチとねぎしのこと、女の子やと思っとったんや」
「そりゃそうでしょ。え、本当はバ美肉でボイチェン使ってるんですか?」
「そうじゃなくて、伊織ってウチらのこと男友達かなんかやと思ってるんかと」
「そんな感じがないと言えば嘘になりますけど、でもほら、インターネットのコミュニティにおいて性別って一番大事な要素ですから」
「まあな。前にその話したしな」
かしゅーさんはゲーム中によく昔の話をしていた。僕もねぎしさんもあまり自分のことを積極的に語るタイプではないので、正直ありがたかった。高校は馴染めずに教室より保健室に多く通っていたこと。地元の友達と会いたくなくて、特に理由もなく上京したこと。小学五年の夏休みにインターネットに触れ、色んなコミュニティを経てここに流れ着いたこと。
彼女は、インターネットにおける女性の価値というものに早くから気付いていた。僕より三つ年上ではあるが、その背中にはタトゥーのようにデジタルネイティブの負の側面がたくさん刻まれていた。酒に酔うとラランドのYouTubeチャンネルの話か、バキ童のモノマネしかしなくなる。
「ウチ、ねぎしが大阪やなくて京都住みやったら仲良くなってなかったかも」
「そんな京都嫌いなんですか?」
「京都っていうか、地元が嫌いやねん。この世界の人間は地元が好きな人間と嫌いな人間に分かれて、後者は成人式にも同窓会にも行かずに忘れられていく」
「かしゅーさんとねぎしさん、歳近いから知り合いだった可能性ありますもんね」
いつもパスファインダーばかり使うねぎしさんとは、かなり早い段階から仲良くなっていた。そもそも、うなぎ王国にはよくボイスチャットに出入りしている十人程度のコアメンバーが存在する。そのうちの一人であるねぎしさんは大阪に住んでいる二四歳で、今は梅田のコンカフェで働いているらしい。店名を検索してみたら、「ねぎ」という名前で顔写真まで出てきた。なんというか、思った以上に常識人っぽい感じがした。実際、三人で話すときはねぎしさんがバランサーになって会話が回っていくことが多い。かしゅーさんが話題を投下し、僕が反応し、ねぎしさんが発展させていく。普段から人と喋る仕事をしているだけあって、流石のコミュ力といった感じだった。
「伊織はオフでも敬語なん?」
「逆に、今からタメ口にした方が気持ち悪いでしょ」
「まあ別にええけど。年下やしな。先輩は敬った方がええで」
「深夜二時に後輩に電話してこないでくださいよ」
「それは……ごめん」
夜中から始まった通話は、三時間以上も続いていた。外は徐々に白み始めている。最近は朝にしか眠れなくなっていた。
「どうせ寝れないからいいですけど。オフ会、楽しみにしてます」
「また連絡するな」
*
オフ会の当日は、夕方から雨の予報だった。使い古した折りたたみ傘を鞄に入れ、常磐線で新宿へと向かう。三人だけのグループDMにもうすぐ到着する旨を連絡し、車窓の奥に映る街並みを眺めていた。何の気なしにポケットに手を突っ込むと、くしゃくしゃのレシートと十円玉が出てきた。まるで、大人の賞状と銅メダルだった。歳を取るとろくな思考に至らない。
都市特有のじめじめとした空気が、不快な夏を演出していた。熱されたアスファルトから靴底を伝って、足裏から全身に暑さが拡散していくようだった。街全体が蜃気楼みたく揺れている。
二人とは、東口から少し歩いたところにある喫茶店で待ち合わせの予定だった。一歩踏み出すごとに汗が噴き出すようで、日傘を持ってくれば良かったと後悔した。遠目に目的の店が見えてくる。
「……」
少しずつ近づいていくと、白い日傘を持った女性がぼーっと店の前で立っていた。初めて会う人だけれど、知っている人だった。
「ねぎしやんな?」
「ねぎしさんですか?」
女性がはっと顔を上げる。切れ長の目から注がれる視線は、左と右を行ったり来たりしている。それもそのはずだ。僕のすぐ隣に、同時に話しかけた女性がいた。
「あっ」
互いに顔を見合わせて、二人とも再度ねぎしさんの方を見た。みんな凍り付いたように、数秒だけ時間が止まった。それはすぐに氷解し、三人とも笑い始める。僕らの出会い方は奇妙なものだった。ひとしきり笑った後、木陰に隠れた店の前で彼女は言った。
「はじめまして。夏秋夏でぇす」
*
お昼過ぎの喫茶店には人がまばらだったが、心なしか年齢層が高いような気がした。よく考えてみれば今日は平日なので、普段はもっと若者が多いのかもしれない。ほどなくして届いたアイスコーヒーは、暑さのせいか、いつも以上に冷たかった。
「ねぎし、かわいい服着とるなぁ」
「かしゅーちゃんも気合い入っててかっこいいじゃん。パンク系好きって言ってたもんね」
「ほんまはうなぎ先生のTシャツ着たかってんけど。ウチの持ってる服の系統とあんま合わんからなぁ」
「伊織くんはなんというか、伊織くんって感じだよね」
「それな。正直、何の前情報なしでも伊織って分かる気がするわ。いかにもサブカル大学生って感じの」
「多分だけど褒めてないですよね?」
「褒めとる褒めとる」
けらけらと笑うかしゅーさんを見て、不思議と悪い気はしなかった。
奇妙な感覚だった。インターネットがなければ一生関わらなかったであろう人たちと、こうしてコーヒーを啜っている。偶然に偶然が重なり、奇妙な友人関係が構築されている。なんだかずっと話しやすい気がした。赤の他人にしか話せない事柄というのを、人は誰しも持っているものだ。そして、それを二人とも知っているのが心地よかった。
「最近は就活してんの?」
「うーん……。ぼちぼちって感じで」
「伊織くんは優秀だし何とかなるでしょ。だって大学通ってるんだし」
「大学通ってたら必ずしも優秀ってわけじゃないですよ。どれくらい優秀かというと、この時期にもなって進路がまだ決まってないんです」
「まあたぶん大丈夫。人生、なるようにしかならんねん。上手くいくときはいくし、死ぬときは死ぬ」
「励まし方絶対ミスってるでしょ」
いつの間にか、Apexの試合五回分くらいの時間が過ぎていた。軽く喉が痺れていた。 この瞬間が終わって欲しくないと感じたのは久々だった。眠れない夜は早く明けることを願ってばかりだから、自分にもこんな感情があったのだと嬉しくなった。思うに、最近の自分は病みすぎていた。
「ねぎし、この後どうすんの?」
「うーん、一応彼氏と会おうかなって」
「あー遠距離言うてたもんな。今も東京住んどるん?」
「そうそう、練馬に。あ、でも私の一番の目的はオフ会だから」
「いや別にどっちでもええけど」
「今度は大阪遊びに来てね。かしゅーちゃんの彼氏も会ってみたいし」
「えっ、かしゅーさん彼氏いるんですか?」
聞き流していたせいで、思わず口に出してしまっていた。言ってから気付いても遅い。きょとんとする二人の表情が辛かった。
「あれ、言うてへんかったっけ」
「大阪に住んでるんだよねー。かしゅーちゃん、意外にも結婚資金とか貯めてるし」
「はずっ。それは言わんでええねん。まあでも、せっかく大阪行くならねぎしの店行こかな」
「それだけは無理。絶対無理」
「分かった、絶対行くわ」
「はい絶交です」
楽しげに話す二人を眺めていた。ぼーっとしていると、視界のピントを合わせるのが面倒になってくる。ぼやけて白みがかった世界を見ていると、こちらの方が正しい姿のような気がしてくる。
「じゃあそろそろ行くね。今日は楽しかった」
ねぎしさんはバッグを持って立ち上がり、僕とかしゅーさんがもそれに続く。お会計を済ませて店の前で別れると、空が赤く染まっていた。音のない巨大な爆弾が町に落とされたように、炎に似た雲が立ち上っていた。夏が終わる前に世界が終わりそうな、そんな夕焼けだった。遠ざかっていくねぎしさんの背中を見ながら、かしゅーさんが呟く。
「あれはモテるわ。もうモテるための服やもん」
「なんですか、それ」
「ああいうかわいい系の服、ウチには絶対似合わんから」
「かしゅーさんはそういうかっこいい系の服が好きなんですか?」
「うーん、好みとかないねん。好きになった男の趣味に合わせることはあるけど」
何かの信念があり、それを貫くためのファッションなんだろうな、という僕の推測はあっけなく打ち砕かれた。ちょっとショックだった。
「えぇ……。いいんですか、それで」
「そのときは自分もそれが好きやと思ってるんやろな。後から考えてみたら地雷系とか全然好きじゃないのに買うてたり」
「というか、かしゅーさんが彼氏いるの、初めて知りましたよ」
「言ってなかったかもなぁ。けど、もう半年くらい会うてへんし、別に好きってわけやないねん。ただ性癖が合うから付き合っとるだけで」
「はぁ?」
「首絞められんの、好きなんよ」
「いや知らんがな」
つい関西弁が伝染ってしまった。
「でも結婚資金貯めてるとか言ってませんでした?」
「それは建前っていうか、そういう目標があれへんと貯金する気にならんっていうか」
「どうでもいいですけど、なんかお腹空きません? 晩飯食べに行きましょうよ」
「行こか。何食べたい?」
「焼肉」
会話がどんどん断片的になっていく。自分が何かにイラついているような気がしたが、その正体は分からなかった。
*
「例えばの話ですよ? 僕がアニメが好きだからって理由だけでアニメ会社に就職したとして、それはもう『仕事』になっちゃうんですよ。好きなものを仕事にするのって、実は大変なんです。多分。じゃあいっそめちゃくちゃ稼げる業種に飛び込んでみてもいいんじゃないかなと思うわけです」
「よう分からんけど、肉焦げてんで」
かしゅーさんはあまりお腹が空いていないようで、ただひたすら肉を焼き続けていた。僕はと言えば、うまくいかない就活の悩みを一方的にまくし立てていた。かしゅーさんにこんなことを言って何になるんだという気はするが、まったく興味がない人に対して話す方が気が楽だった。
「はあ……働きたくないな……」
「別にそんな悩むことでもないで。ウチですらそれなりに生きてはいけてるんやから、伊織ができひんわけないやろ。たまに仮病で休むけど」
「コールセンターの仕事でしたっけ」
「そうそう。契約やからいずれは首切られるけどな。カスみたいな相手ばっかやから楽しいで~」
けらけらと笑いながら、かしゅーさんはサンチュと韓国海苔をバリバリと食べている。たしかに、この人が仕事に関して愚痴を言っているのは聞いたことがなかった。
「やってて辛くならないんですか?」
「仕事に辛いも何もないわ。ただ働いて、帰るだけ。それの繰り返し」
「なんか……それって幸せなんですかね」
何気なく発した一言だったが、一瞬だけ周囲が静まり返ったような気がした。しばらくして世界の音が戻ってくると、かしゅーさんと僕は自然に目が合った。
「あんな、ウチは幸せなんて思ったことないで」
「え?」
「そんなん考えるんは……伊織が賢いからやって。ウチは別に頭も良くないし、大学も行ってないし、幸せとか不幸とか、思ったこともない」
分かるような、分からないような話だ。
「じゃあ、かしゅーさんは何のために生きてるんですか?」
「そら、こうして伊織とうまい肉食うためやん」
「……はいはい」
「いいんですか? 本当に払ってもらっちゃって」
「ええよええよ。一応年上やしな。その代わり、就職したらもっと高いやつ奢ってもらうから」
「考えときます。まずは面接通らないと……」
店を出ると、外はすっかり日が落ちていた。
僕らと反対側に進んでいくサラリーマンの集団が、ちょうど退勤時刻になったことを告げている。
かしゅーさんは、友達にしては少し近くて、恋人にしてはやや遠いくらいの距離感で、僕と並んで歩いていた。いつもは不快な街の灯りが、今日はなんだか心地よかった。誘蛾灯に導かれる羽虫のように、僕らはゆっくりと駅へ向かった。
「じゃ、またな。本当はもう一軒くらい行ってもええんやけど……明日も仕事やから」
「かしゅーさんも気を付けて。また戦場で」
「ほな。ウチこっちやから」
覚束ない足取りでふらふらと駅の階段を登り、目の前にあった青色のベンチに腰かける。リュックの底でぬるくなった水を引っ張り出し口に突っ込むと、今日の記憶が濁流のように流れ込んでくる。
「かしゅーさんは、なんで結婚資金とか、貯めてるんですか」
「うーん、自分でもよう分からんけど、結婚資金貯めるみたいな目標がないと、別れてまうと思ってるんかなぁ」
「なんじゃそりゃ」
「いやウチも意味わからんよ。結婚したいとも思ってないし。ただ、付き合ってるうちに、どうやって相手を好きになるかよりも、どうやって相手を嫌いにならへんかばっかり考えてしまってる、気が、する、かもな」
煙の向こうでかしゅーさんが言っていた言葉を反芻して、胸の中で何かがストンと落ちた。今日の僕がなぜこんなにイライラしていたのか、理解できた。
別に、彼女の恋人が名古屋に住んでいる十歳上の男であるとか、明らかにハゲていて美形とは言い難いこととか、トヨタの子会社勤めのくせにトヨタ社員を名乗ってるとか、そういうことではなかった。
別に、そういうことでは、なかったのだ。
九月
「今度ある全体のオフ会、二人は行く?」
本日七度目の殺人を行い、弾をリロードしたタイミングで、ねぎしさんがそう切り出した。
僕たちは相も変わらず人を殺す戦争ゲームに夜な夜な興じていて、その結果として試合に勝ったり負けたりしていた。ランクは先月からそれほど変わっていなかった。
「サーバーの方、最近は全然見てへんけど、そんなこと言うてんの?」
「うん。……もしかして、二人とも知らなかった感じ?」
僕とかしゅーさんは他の人とそれほど活発に交流するタイプではないが、ねぎしさんは逆だった。「#雑談」にも、「#お悩み相談」のチャンネルにも積極的に投稿を行い、見知らぬユーザーと会話を交わしていた。
ねぎしさんによれば、有志の企画したうなぎ王国のオフ会が、来月末に開催されるらしい。
「うーん、僕はどうしようかな……ねぎしさんは行くんですか?」
「行くよ~。どうせ彼氏に会うために二ヶ月に一回は東京行ってるし」
「ねぎしは顔広いもんなぁ。ウチは別に会いたい人もおらんし、パスかなぁ」
「えっ、かしゅーちゃん私に会いたくないってこと?」
「いや、ねぎしに会うなら個別で会うわ。一応うなぎ王国にいるけど、伊織とねぎし以外はそんな知らんし」
「そんな~来てよ~。え、じゃあ伊織くんが来るなら行くってこと?」
「……考えんこともない」
「というわけで伊織くん、来るよね?」
「え? まあ、はい」
ゲームをプレイしながらだったのでしっかり聞いていなかったが、何やら重要なことが決まりかけていた。
「やった~! かしゅーちゃんも一応は〝うな民〟なんだから、ちゃんと来てよね」
「うな民ってなんやねん気持ち悪い」
「え~知らないの? うなぎ先生のファンはうな民、うなぎ界隈では常識だよ?」
「うっっっざ! 界隈とかそういうのいっちゃん嫌いやねん、もう」
「鍵垢でも言ってましたもんね。〝界隈とかいう言葉、初めて使った人間は死んだ方がいい〟って」
「伊織、どさくさに紛れて人のツイート音読すんな」
「あはは、二人とも仲良いなぁ。とにかく、来月末空けといてね」
結局、その日は最初にもぎ取った一勝以外は特に戦果も上がらず、日付が変わる頃に解散となった。
試合が消化不良だったっこともあってか、まったくと言って良いほど眠くなかった。
ビールでも飲んで無理矢理意識をシャットダウンさせようと目論むが、冷蔵庫にはもう酒がなかった。
仕方なく薄く硬いベッドに体を預けてみるも、様々な思考がぐるぐると脳内を駆けめぐり、むしろ意識は覚醒する一方だった。
一体、何をやっているのだろう。
大学に行って講義室の一番後ろで短い睡眠を取り、倉庫で虚無のバイトをこなし、帰宅してからはApexで時間を潰す。
こんなことをしているから当然ではあるが、僕の進路問題は一向に解決せず、お祈りメールだけがフォルダに溜まっていった。もはや新しくESを出すのは諦めていた。
おもむろにスマホの充電コードを引き抜き、Twitterを起動する。指の流れはあまりにも自然で、きっと目を瞑っていてもタイムラインをスクロールできるだろう。
ぼんやりと画面を見つめていると、見覚えのあるアイコンが目に入った。
かしゅーさんの、鍵アカウントだった。
はるあきなつ @kasyuna_2nd ・ 分
つらい
三文字。たった三文字だった。
けれど、その三文字はアルコールの入っていない僕の脳を覚醒させるには充分で、暗闇で静かに震えながら恐れに耐えているかしゅーさんの姿が痛いくらい想像できた。
先ほどまではあれだけ気丈に振る舞っていたかしゅーさんがこれをツイートするまでに何があったのか、強烈に知りたいと思った。気づいた時には、Discordでメッセージを送っていた。
伊織— 今日 0:09
大丈夫ですか?
送ってすぐに、「かしゅー さんが入力中」との文字が出て、やがて消えた。その後も何度かそのポップを繰り返し、五分が過ぎても何かが送られてくることはなかった。
きっと、何を言うべきか、誰に言うべきか、迷っているに違いなかった。だから僕は三秒だけ秒だけ迷って、電話をかけた。
「もしもし、かしゅーさん?」
「あんな、」
もしもしも前置きも何もなく、かしゅーさんは喋り始めた。いつもの甘い声はやや掠れていて、スマホをよほど耳に強く押しつけているのか、たまにざらざらと髪の毛の触れる音がした。僕はかしゅーさんが泣いているのかと思ったけれど、聞いてみる気にはなれなかった。
「前に言うたやんか、彼氏、名古屋におるって」
「はい」
「ウチな、前は名古屋で働いてて、そん時に職場の先輩から紹介された人が、彼氏やったんよ」
「はい」
「そしたら最近、その先輩から連絡きて。『高野さんとまだ付き合ってるの?』って。あ、高野ってウチのことな。経緯はよう分からんけど、先輩は私の彼氏のこと、好きらしい」
「でも、元はと言えばその先輩が今の彼氏をかしゅーさんに紹介したんですよね? 意味わかんなくないですか」
「そうやねん。やから、訳わからんと思って、先週末に名古屋行って、彼氏の家まで行ったんよ。そしたら、どうなったと思う? 彼氏の家から先輩と彼氏が出てくんねん。しかも手まで繋いで」
「……うわぁ」
「そん時はムカついて殺したろかなと思ってんけど、なんていうか……ウチよりずっと、先輩といる方が楽しそうやったんよ。ああ、むしろ邪魔なのって、ウチやったんやって。そっからもうどうでもよくなって、手繋いで歩く二人の背中が見えんくなったら、持ってたタバコ、外に置いてある洗濯機の中に捨ててやったわ」
してやったりという感じで話すかしゅーさんだったが、微妙に声が震えていた。もう何時間もボイスチャットで話した仲だ。それくらいすぐに分かってしまう。
「それで、かしゅーさんはどうしたいんですか。一旦刺しときます?」
「ははっ、伊織もそういう冗談言うんや。ごめんな、別にどうしたいとかもないねん。というか、もうどうしようもない。ただ辛いだけ」
「むしろ僕の方こそごめんなさい。大変なときに電話なんかかけちゃって」
「いや、かけてくれてありがとう。こんなこと話せるの、伊織くらいしかおらんから」
心がキュッとなる。血の巡りが早くなる。勘違いするなと、自分の中の誰かが叫ぶ。
「別に、そんなこともないでしょ。ほら、ねぎしさんとかもいるし」
「んー、それはそうやねんけど、なんていうか、ねぎしに話せることと、伊織に話せることはまた別やん? 同じ友達ではあるけど」
「そういうものですかね」
「そういうもん。ねぎしと恋バナとかせえへんしな」
「えっ、そうなんですか?」
「そら、互いにもう彼氏おるのに恋バナする人あんまおらんのちゃう? 他の人は知らんけど」
「なるほど……なんか、修学旅行みたいですね。寝る前に恋バナって」
「あ、たしかに。なつかしいなぁ。そういえば、伊織の高校の話とかってそんな聞いたことないけど、どんな感じやったん」
「あー、えっと……」
僕にとって、高校時代の話をすることと弱さを見せることはほぼ同義だった。なぜなら僕の自意識は中学時代に芽生え、高校時代で肥大化し、大学時代に自分の手で殺したからだ。
それは、他でもない黒歴史──という言葉はあまり好きではないが──で、僕が人に心を許す最後の砦だった。けれど、僕はいずれかしゅーさんにこの話をするだろうと薄々感じていた。きっと、僕らはこの先もずっと仲良く一緒にいるか、ある瞬間に決別して二度と会わないかのどちらかになるだろうと、なんとなく思っていた。
「高校のとき、一度だけ告白されたことがあるんです。二年生に上がったばかりのタイミングでした。特にいじめられてたわけではなかったんですけど、一年のときに仲が良かった人たちがみんな理系に行ったせいで新しいクラスに馴染めなくて、まあかなり浮いてたんですね。そんな中、同じクラスの女の子が告白してきたから、縋るような思いでその人と付き合って、そして一週間で別れました」
喋りながらじんわりと汗が滲んでいく感覚があった。かしゅーさんはゆっくりと「うん」と相槌を打つだけで、何も言ってこなかった。話の続きを待っているのだろう。
「結論から言うと、その子は僕のことが好きだったわけでもなんでもなく、友達に『誰かに告白する罰ゲーム』みたいなものを強制されてたんですよ。たぶん僕と同じくちょっと集団に馴染みづらい子で、けれど無理に馴染もうとしたばっかりに遊ばれてたんでしょうね。むしろ僕よりずっと可哀想だと思いました」
「……うん」
それが原因で、というわけではないが、それをきっかけとして僕の肩身はますます狭くなっていった。ただでさえ馴染めていなかった空間に気まずさが足し算されてしまうと、どうしたって高校には行きたくなくなる。
いじめられていたわけではなかった。ただ、行きたくなかった。
結果として僕の出席日数は留年ギリギリとなり、親との関係はますます悪化した。三年生に上がるタイミングで新型のウイルスが蔓延して休校になっていなければ、僕はあのまま高校を辞めていたかもしれなかった。
「伊織って、案外ウチと似たところにおったんやね」
かしゅーさんの声は、いつもの調子に戻っていた。相変わらず夜中には甘ったるすぎる声で、心地の良い関西弁で、目を細めて光を見つめているような物言いだった。
「ウチな、高校時代、別室登校やったんよ。この感じで。ウケるよな」
「いや、そんなに」
「そこはウケろよ。でな、昼間はずっと保健室の先生とお喋りして、他の生徒が来たらカーテンの裏に隠れて、先生とその生徒が話してるのを聞いて、なんでウチだけこうなんやろって死にたくなって」
「伊織と同じで、いじめられてたとかじゃないんよ。でも、高校の時点から死にたい気持ちとか、そう思ったときの頭痛とか発作とか、そういうのがあって、それが教室で起こってパニクったらどうしようって」
「おかしいよな、普段こんなんやのに」
かしゅーさんの言う「こんなん」が僕には全然わからなかった。だって、かしゅーさんは最初からかしゅーさんだった。オフ会で実際に会う前から、初めて通話して声を聞く前から、僕の中でかしゅーさんのイメージは一度も揺らいだことがなかった。
「かしゅーさんは、ずっとかしゅーさんじゃないですか」
「……え、そうなん?」
「別室登校の話は初めて聞きましたけど、最初から”そういう”タイプではないと思ってましたよ。文化祭とか修学旅行とか興味なさそうだし」
「なんで知ってんねん」
「だって、僕もそうだったから」
たしかに、初めからかしゅーさんと現実で出会っていたら、多少の勘違いはしていたかもしれない。でも、僕とかしゅーさんは、本来ずっと近い位置にいたはずなのだ。高校へ行くまでの電車を待っていたらふと思い立って逆方向の路線に乗ったとき、隣の車両に乗っていたかもしれない。
「……そっか」
この日、僕は初めて剥き出しのかしゅーさんと話した。「本当の自分」なんて思春期ワードを使うつもりはないけれど、剥き出しの相手と対話できるのは剥き出しの自分だけだった。いつの間にか夜は明けていて、カーテンの向こうから鳥の鳴き声が聞こえた。僕はその日の講義をすべて休んだ。
十月
新宿駅で降りるたび、本当に嫌な街だなと思う。
道路に落ちているゴミは多すぎるし、そのゴミと同じくらい人がいるし、なんか街全体がゴミ捨て場のような匂いがする。そして、その街を歩く僕も、漏れなくゴミの欠片だった。
うなぎ王国のオフ会が歌舞伎町で行われると知ったとき、断らなかったことをやや後悔した。あの土地には常に破滅的な空気が漂っていて、そのことに皆気付かないフリをしている。東京の醜悪さを体現したような街だ。
汚らしい雑居ビルの三階。明らかに何世代か前のエレベーターに乗り込むと、目的の店はすぐに着いた。何の特徴もない新宿の安居酒屋。三五〇〇円。七品。飲み放題付き。メニューは見ていないけれど、どうせ唐揚げとフライドポテトがメインディッシュに決まっている。
Discordを確認すると、もう何名かは店に入っているようだった。わざとらしく溜息をついてから、ドアを押して店員に予約名を伝える。通された個室には九人ほどが詰め込まれていた。
「あ、伊織くん」
奥から呼びかけられたかと思うと、ねぎしさんがいた。ややロリィタっぽい今日の服装は新宿の個室居酒屋には明らかに不釣り合いで、一目で分かる。現時点で唯一の知り合いに会えたことに安堵するも、彼女の周りは既に”うな民”で固められていた。
ああ、これはねぎしさんの隣には行けないやつだな、となんとなく察し、空いていた手前の席に座る。意外と女性もいるんだなとか、結構「オタク」っぽい人も多いんだなとか、初手から失礼なことを考えていると、目の前の女性にメニュー表を渡される。
「初めまして。ぴなぴっぴです。何飲む?」
「あ、どうも……じゃあレモンサワーで」
正確に名前を聞き取れたかどうか怪しかったが、なんとなく名前に聞き覚えがある気がした。おそらく、うなぎ王国のサーバーで積極的に発言をするタイプの人だから、文字列を見たことがあったのだろう。ハンドルネームとはいえ、名前に「ぴ」が三文字も入っている人を、僕は他に知らなかった。
「えっと……」
「すみません、伊織です」
「あっ、伊織さん」
ほとんどROM専なのだから覚えられているわけもないよな、という気持ちと、じゃあなんでここにいるんだよ、という気持ちが同居している。たしかに、僕はどうしてここにいるんだろう。理由はもちろんねぎしさんが誘ってくれたからだけど、当のねぎしさんは奥の席でコンカフェ勤務のコミュニケーション能力を存分に発揮していた。
「伊織さんは、ねぎさんと仲良いんですよね? ねぎさん、たまに伊織さんの話してるから」
「え、ねぎしさんがですか?」
「はいっ。彼氏以外で一番信頼できる男って言ってましたよ」
「そんなわけがなさすぎる」
「え~。でもなんかちょっと分かります。すごく誠実な感じがしますもん」
「僕ら初対面ですよね……?」
「そうですよ。けど、その人の印象なんて出会って三秒でわかりません? あ、そういえば『出会って4光年で合体』読みました?」
ただでさえ騒がしい新宿の居酒屋で、矢継ぎ早に飛んでくる質問を捌く技術は、皆どこで身につけるのだろう。
今の僕にできることといえば届いたレモンサワーをちびちび飲みながらぴなぴっぴさんの会話にタイミングよく相槌を打つくらいだった。やっていることはほとんどリズム天国と変わらない。
グラスが半分くらいになったところで、背後から知っている声が聞こえた。集合時間から既に二〇分ほどが経過していた。最初に気付いたねぎしさんがパッと手を振って合図すると、最後の一人が入り口に一番近い席に座った。
「それじゃ、かしゅーちゃんも来たことだし、乾杯しよっ!」
幹事ではないのに幹事みたいなことを言うねぎしさんのかけ声で、オタクたちは一斉にグラスをぶつけ合う。かしゅーさんの方に目線を向けると、一瞬だけ目が合い、すぐに逸れた。
「へ~、伊織さんあそこの大学なんですか。頭いいんですねぇ」
「まさか。落ちこぼれも落ちこぼれですよ。現にまったく授業出てないし」
「え、てか、菜々穂とか知ってます? 同じ大学のはずなんですけど。あ、でも学年は違うかも?」
「いや、知らないです」
「そっかぁ。ワンチャン知り合いかな~と思ったんだけどなぁ」
心が死ぬとご飯の味がしなくなるのだということを、僕はその日初めて知った。大学入学時にサークルか何かに入っておいて、飲み会の経験を積んでおくべきだった。年下の飲み会戦闘力に敗北しそうになっている事実が、端的に情けなかった。だから就活も全落ちしているんだろう。
「私、ちょっとお手洗い行ってきますねっ」
ぴなぴっぴさんが席を立つと、どっと疲れが押し寄せた。一時間ぶりにスマホの画面を見ると、かしゅーさんからDiscordのメッセージが送られてきた。
かしゅー— 今日 20:25
もう抜けへん?
三席隣にいる送り主は、助けを求めるような目でこちらを見ていた。口では笑っているけれど、目は笑っていない。頼むから抜けろという圧すら感じた。
一度時間を確認し、トイレに行くような素振りで靴を履き始める。用を足すのにカバンを持っていく必要はまったくないのでこの時点でおかしいのだが、要は気持ちの問題だった。
お金は後からPayPayでねぎしさんに送っておこう、そして抜けたことを謝っておこう。エレベーターの前に置かれた木製の丸椅子に腰掛けていると、少し遅れてかしゅーさんが出てきた。
僕は「なんなんですか」と声をかけようとしたが、喉から出る直前でその言葉は引っ込めた。かしゅーさんはなぜか泣きそうな顔をしていた。
「伊織」
「……どうしたんですか」
「誰かを、普通に、好きになる。この街ではそれが一番難しいねん」
「あの、酔ってます? それなら別の店とかで……」
「今から、……海、行かへん?」
*
考えてみれば、こんな時間に湘南新宿ラインに乗ったことなんてなかった。当たり前だ。日が沈んでから海を目指す人間なんて、僕か、かしゅーさんか、自殺志願者しかいない。
僕らは言葉を忘れたみたいに何もしゃべらなかった。車内は空いていて、僕とかしゅーさんはうなぎ一匹分(横)の距離で隣に腰かけた。
不意に、何か重要なことを思い出したような気がした。江の島行きの電車。ガラガラの車内。そうだ。高校二年生の、あの日だった。
高校へ向かう路線と反対側のホームで電車を待っているとき、僕には羽が生えていた。それは本当にどこまでも飛んでいけそうな感覚で、あのときの僕には無限の可能性があった。
僕らは今、海の上を走っている。月の海だ。この電車は月の引力で動いている。水面に浮かんだ満月を切り裂くように、あるいは月の脈動を生み出すように。
あの短い時間で精神を摩耗してしまったからか、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。ふわふわと夢と現実のあわいを彷徨っていると、僕の好きな香水の匂いがした。ゆっくりと目を開くとかしゅーさんが隣にいた。二人の距離はいつの間にか縮まっていて、うなぎ一匹分しか離れていなかった。もちろん縦だ。
「降りんで」
夜の海はエモくもなんともなかった。僕はただ少し、不安だった。
海面は暗く、そして重く沈んでいた。光を失った海面は、その下にとんでもない深さがあることを雄弁に語っていて、見えないことがこんなにも怖いとは思わなかった。
なぜ人はときどき海へと行きたくなってしまうのか。今ならなんとなくわかる。海を前にすると嘘をつけなくなるからだ。目の前にあるのは無数の真実だった。見下ろす月を証人に、僕らは本当のことだけを言うことに決めた。
かしゅーさんは何を考えているのだろうか。隣に目線をやると、慣れた手つきでポケットから取り出したタバコに火をつけているところだった。
「……かしゅーさんって、吸うんでしたっけ」
「やめててんけどな。元カレが吸ってたからだらだら吸ってて、もう半年くらいは吸ってなかってんけど」
「まあ、なんというか、風が強いと吸いたくなりますよね」
「吸わんくせに」
はにかみながら煙を吐き出すかしゅーさんの目はどこか遠くを見ていた。地平線の先、なんてものじゃない。なにか、もっと観念的で、抽象的な遠くの場所だった。
「やっぱ無理やなぁ。向いてないわ、ウチにはああいうの」
「あんなの向いてる方がどうかしてるでしょ」
「でもな、人ばっか見てると海見たくなるけど、海ばっか見てると人に会いたなるねん。なんでなんやろな」
「まあ、わかりますけど」
かしゅーさんは三本ほど煙草を吸い終え、唐突に笑い始めた。当然気が狂ったのだと思ったが、次第に僕もつられるように笑ってしまった。狂人が二人、海を前に笑い声を上げていた。人骨かと思って拾ったものがただの貝で、僕はますます笑いを堪えられなくなった。
ひとしきり話し終えたあとで、かしゅーさんは言った。涙でアイラインが滲んでいた。
「はぁ、終電、なくなってもうたな」
「それ、ふつう男が言うやつでしょうが」
「細かいことはええねん、どうでも。んで、どうすんの、伊織は」
僕の答えを待っているようで、彼女はほとんど答えを強制しているようなものだった。それは目を見ればすぐに分かる。
そこからの話はあまり思い出したくない。別に嫌な思い出があったわけではなく、自分の体験を客観的に語ることにどうしても忌避感を覚えてしまうからだ。
けれど、僕にとってはあらゆることが初めてだったにもかかわらず、僕自身はきわめて冷静だった。僕はかしゅーさんのことが好きだった。そして、おそらく、彼女も。
一つだけ印象深いエピソードを語るならば、ひとしきり物事が終わった後の深夜二時頃、彼女は昔の話を始めた。
「なんか、夜に布団で恋バナするって、修学旅行みたいやんな。これ前も言ったっけ」
言い得て妙だなと素直に感心した僕は首を縦に振り、同じように既視感を覚える。僕は「いい思い出でもあるんですか?」と尋ねた。
「小学生の頃やけど、好きやった男の子が隣のクラスにおって。でも女子はみんな賢いから、恋バナするときは二番目に好きな男の子の名前を出すねん」
「揉めないように、ですか」
「そう。でもウチはその子以外にだーれも思いつかんかったから、ふつうに一番好きな男の子を名前を出してん」
「それで、どうなったんですか?」
「別にどうもならんよ。小学生やしな。けど、あそこで嘘をつかんかったってことが、それだけが、自分の人生で誇れることやから」
そんなわけがないだろうとツッコもうとしたが、これは他人が否定していい領分ではなかった。きっと、かしゅーさんはこの一瞬の記憶だけで、もう何歩も前に歩いてきたのだ。
「じゃあ、かしゅーさんは、」
うまく言葉が出ない。最近流行りのボーカロイドくらい鼓動が早い。こんな喩えしか出てこない自分が恨めしい。
永遠とも思える数秒間を経て、僕はようやく続きの言葉を紡いだ。
「今、好きな人とか、いるんですか」
自分でも分かるくらい、消え入りそうな声だった。最後はほとんど消えかかっていた。それでもかしゅーさんはちゃんとその言葉を受け止めてくれた。満足そうな顔をした後、僕の肩にもたれかかるように、耳元でこう言った。
「好きでもない男と、ホテルなんか行かんわ」
ああ、この人は本当にずるい人だ。
*
かくして、僕とかしゅーさんの修学旅行は終わりを迎えた。
付き添いの先生も、送迎用のバスもない。大人になれなかった大人のための修学旅行。
昨日と何か違うところがあるとすれば、僕とかしゅーさんは手を繋いでいた。駅に向かうまでの短い時間だけど、僕とかしゅーさんは恋人同士だった。この瞬間が永遠になればいいのにと、心の底から願った。瞬間は何枚も重なり、時間となった。時間は無常に過ぎていった。僕らは駅に着き、休日だからかガラガラの電車に乗った。
昨日とは打って変わり、海面は光の粒が弾けて何かを祝福しているようだった。心地よいリズムでガタンゴトンと揺られているあいだ、僕らは波の間を縫って泳ぐイルカのようだった。
やがて新宿に着いた。新宿に着くということが意味するのは、新宿に着くということだけではない。僕らは二人ともここで乗り換えないといけない。それも別々の路線に。別れの時が今まさに訪れようとしていた。
僕らは互いに何を言うでもなく、階段を降りてそれぞれの分岐点まで向かった。山手線の改札の前で、かしゅーさんは俯いたまま話し始めた。
「あんな、ウチ、伊織のこと死にたいくらい好きやねん。毎日毎日伊織のこと考えて、泣きたくなるくらい好きって思って、でも、それはウチにとって一番遠い人やからって、分かってる。好きやけど、それでは幸せにはなれんって、嫌なくらい分かってまうねん」
何も言えなかった。言えるわけがなかった。
「だから、ほんまに、」
続きを聞きたくなかった。聞いてしまえば世界にひびが入ってしまうような気がして。けれど実際、ひび割れたのは僕の心だった。かしゅーさんのことが好きだと思った、この心に他ならなかった。
「今まで、ありがとう」
それからのことはあまり覚えていない。改札の前で立ち尽くしている僕を、乗客は迷惑そうに押しのけながら向こう側へと消えていく。
気づくと、かしゅーさんはいなくなっていた。まるで秋みたいな人だった。僕は常磐線で家まで帰り、熱いシャワーを浴び、少しだけ泣いてから、泥のように眠った。
季節は十月で、秋だった。

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