枕のように、やわらかく天使(Your angel exists in your brain)/二枚貝(双川望)

著:二枚貝(双川望)

 鐘の音が鳴る、何かが始まっていく、何かが終わっていく、速度、速度、速度、桜の花びらが落ちる速度、飛行機雲が生じていく速度、花が開くときの速度、雪の結晶のその一粒が落ちていく時の速度、宇宙が膨張していくときの速度、何も知らないままでいたい、子宮の中で数億年の夢を見る、きみはギターの音を鳴らす、Fのコードを、Amのコードを、そしてきみは出会う、物語が生まれ、通り過ぎていく速度で、夢を見る、意味が生じていく速度と、意味が滅びていく速度、速く速く速く速く通り過ぎていく、一編の詩の速度。
「行きたい場所はある?」
「どこにもないところ、どこにもない国、どこにもない学校、どこにもない屋上、どこにもない病院(サナトリウム)、どこにもない世界」

***

 八月三十日のお昼の三時くらい、照り付ける太陽と蝉の暑苦しい大合唱にも負けず、美香ちゃんは近くの幼稚園に忍び込んだあと、一人の幼稚園児を誘拐して、隣町の公園まで拉致してはブランコに乗って、ゆらりゆらりと揺られながらお話をしていたのでした。
「ねえねえ。幼稚園ではいつも何やってるの?」
「絵本読んだり、するよ。お菓子を食べたりも、するし、先生と一緒に、音楽に合わせてみんなで体操もするし、滑り台をすべったりも、するよ」
「楽しい?」
「うーん、あんまりかも。お姉さんは、いつも何をしているの?」
「お姉さんはね、〈アナイス・ニン〉なの、もしくは〈さまよえる魂〉。いまは、〈ルイス・ウェイン〉の描いたあの万華鏡のような猫のうちの一匹が街に逃げ出してしまったから、毎日のようにそれを追っていて――だから、あなたにもその猫を追いかけて欲しいの、もしくは未完のまま終わった小説の続きを想像すること、天井のしみを数えること、あらゆる種類の世界の終わり方を一つ目から百まで数えて眠ること、眠らないまま朝を迎えること」
「お姉さんは、〈アナイス・ニン〉なの?」
「そう、私は〈アナイス・ニン〉だし、私がいつも付けているネックレスの、この金属製の透明なカプセル。このカプセルの中に入っている薬のその粉末は、パウル・クレーの絵に描かれた〈新しい天使〉のその翼を切り分けたあとミルサーにかけて粉にして、そのあと『不思議の国のアリス』のあの涙の池と、誰かの見た曖昧な夢、暴力的な朝の光とその真っ白な世界にそれぞれ二日間ずつ浸したあとコーヒーフィルターでろ過して、その液体を蒸発させたあとに残ったもので、その名前は〈Angel dust〉なの」
「〈Angel dust〉を飲むとどうなるの?」
「〈Angel dust〉を飲むと、まず灰色のノイズが聞こえてきて、空を見上げると、見たことのない形の雲が空全体を覆っていることに気が付く。きみは寂しさと懐かしさと恐怖と不安と心細さに襲われて、外に出ようとしたら、最終波動が繰り返しやってくる、そのたびに今自分がこの場所に、この時間に存在していて、これからも存在し続けなければいけないということが、どうしようもないくらいに怖くなる。茜色の空を見ると正気には帰れなくなる。懐かしさが地球を包み込む。人々は死を恐怖して地下の核シェルターを建設して住み始めるけれど、一方では各地で集団自殺も多発する。天井を見るとガス管をくわえた川端康成と目が合う、鯨たちが次々岩礁にぶつかって死んでいく。燃えるような空からは百億のナメクジが落ちてくる。きみと私は一緒にサーカス団を初めて各地を巡演していくことになるけれど、途中できみは私を殺してしまう。そしたら、空の向こうから魔法少女が現れて呪文を唱える、声が聞こえる、あらゆる方向から、すべての細胞から」
「声が響いて、きみは、気づいたらビルの屋上にいて、何となくぜんぶどうでもよくなって、というか。普通にこの世界のすべてが仮象であり、演技であり、初めから何の意味もないということを理屈とかそういう次元を超えた身体的なものとして感じ取って、地上(あるいは空だったかもしれない)の方へと落ちていく。そのとき、きみ自身が魔法少女になっているのだけど、きみは落ちていくことで精いっぱいで、そのことには気が付かない。きみはルイス・ウェインの描いた猫としてそこに存在する。落下に伴って下から風が吹き上げてくるけれど、不思議と、すべては夢のようだから怖くはない、だけどたしかに地面が近づいてきて、地面に落ちる一ミリ前まで生きてるきみの身体が、そのもっと先に触れた時、ただの肉片になる。完全なる猫はこの世界すべてと全く同じものになり、自分が猫なのか、猫が自分なのかもわからなくなる、猫の細胞のその一つの中に宇宙があって、この宇宙は猫の細胞だと気がつく」
 それを聞いた幼稚園の子ブランコに乗ったまま、「うーん」と言って首を横にかしげる。
「ちょっと難しかった?」
「うーん、わたしにはちょっとよくわからないかも」
「そうだよね、ちょっと難しかったよね。分かりやすいように言うとつまり、お姉さんがいまここにつけているカプセルを口に含んで、それを飲み干すと、お姉ちゃんは次第に訳の分からないうわ言ばかりを繰り返すようになり、そのまま発狂して死んじゃうんだ」
「えー、でも、それってなんかこわくない?」
「こわくないの、別に発狂して死んじゃいたくないんだったら飲まなかったらいいだけだし、でも……」
 美香ちゃんはこまったような笑顔を浮かべた後、幼稚園の子の方を一瞬見て、すぐに言葉を紡いだ。
「ごめん、お名前、教えてもらってもいいかな?」
 幼稚園の子も、少しはっとした顔を浮かべて、「ゆり組 笠原梨音 五歳です」と美香ちゃんの顔を見る。
「そう、梨音ちゃん! こわくないの、別に発狂して死んじゃいたくないんだったら〈Angel Dust〉を飲まなかったらいいだけだし、でも、もしいつか、梨音ちゃんのすべてがどうしようもなくなって、何をする気力も起きなくなって、ぼんやりとして、どこへ行ってもどこにも行けなくなる、そんな時が、来たんだったら、そのときにはこの〈Angel Dust〉を、飲んだらいいと思うの」
 美香ちゃんがそう言って、梨音ちゃんに〈Angel Dust〉を手渡そうとしたとき、梨音ちゃんは公園に咲いていた、たんぽぽの綿毛のその茎を親指と人差し指で持って息を吹きかけていて、飛んでいくたんぽぽの綿毛はどこへ向かっているんだろう、なんて思う私。相変わらず蝉は合唱を続けていて暑苦しく、生ぬるい空気の世界だったけど、数秒の間だけ公園を風が通り過ぎていく、それはなんだか涼しくて、ちょっとだけ、永遠みたいな心地がしたのでした。

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