執筆者:精神外傷ちゃん
目が覚める。見上げれば開きっぱなしの網戸の外に、燃えるピンクの夕方の空、午後五時を告げる町内アナウンス。ピンポンパンポーン、無気質な女の声は何度も何度もリフレインして、気が狂いそう。まぁそう言って狂ったことは一度も無いから私はこんなつまらん日々を今まで繰り返している訳だけど、そう思ったらこの声なんかより私の人生のほうがよっぽどがらんどう。
もしもこれが昨日の夢の続きであるのなら。それなら、夢でくらいは満たされるかな、って願って起き上がる。裸のまんまベランダに出て、干しっぱなしの白いシーツに手を伸ばしたら、丁度飛び立つ鶴と目が合った。
(逸らすな。)
耳をつんざくような声がして、その一瞬で真っ黒な瞳が遠ざかる。翼の先に夕立を連れて、あっという間にシーツを濡らしていく。
気付けば五時のチャイムも変わって、ちょっと昔のサブカルロック。聞き覚えのあるのに知らない声だと思えばそれはカバーで、気の毒なくらい真面目で独りよがりで不気味な、あいつのゆきちゃん賛歌が流れてる。
「ゆきちゃんゆきちゃんゆきちゃんかわいいゆきちゃんだいすきゆきちゃんあいしてる。」
ゆきちゃん。あの子は弱くて間抜けで、だからかわいい、男が好きな感じの女の子。アーモンド型のその目を覗くと、春の湖沼で泳ぐシーラカンスの鱗みたいな柔らかな光に満ちていて、私は無性にそれを壊したくなる。
すべての憎悪は愛であるとか言う人がいるけど、それはただの呪いで愛じゃない。愛は絶対呪いじゃないし、だから私のこれは愛じゃない。その潤った皮膚を見るたび鱗包丁を掲げて追って皮を剥ぐことばかり考えるのは、そしてそのたび枯れた緑の葦に足を取られて沼に沈んでいくのは、きっとただの執着だ。
魚は人に素手で触れられると火傷をするらしい。それなら包丁なんて使わなくてもこの身で包むだけでいい。男が来ようとしても来れない距離まで近付いて、それでも彼女は警戒しないし、そのままそっと抱き締めたってきっと彼女は拒まない。女でよかった、何度も何度も思うセリフをこんな理由でなぞるだなんて思わなかったし、或いはそもそも私は私が女だからこそ彼女を呪っているかもしれなくて、つまりもしかしたらそこには倒錯が起こってるかもってことなのだけど、難しいことはよく分からんから、シーツと共に彼女を抱いて、そのまま鎖で繋がった。
私の熱のぜんぶを預けてつくる、シーラカンスの焼死体。それはきっと腹を裂くより苦しいはずで、私の下で、私の舌で、顔を顰めてふんふん唸るゆきちゃんを見てると、だんだん自分が壊そうとしてるのはこの女なのかあいつの心か私自身かわからなくなる。うるさい、もっとだ。もっともっともっともっと壊れてはやくめちゃくちゃになれ。
願えばどんどん息が荒くなり、いつの間にか白い部屋には水が満ち、最後の気泡が私の口から逃げていく。呪いは己の身を祟る、だからそのまま私は死にました。I died.
You died!って鶴が鳴く。黒い雲を連れてやってきたあの鶴だ。鶴の一声なんて言葉があるけど、その鳴き声ひとつで、たしかに途端に景色が変わる、そこは網戸の外れたベランダでも水のベッドでもなく、今まで幾度もわたしが沈んだ湖沼で、あーこっちが正解だったか、残念。と思う。
相変わらず足は枯れ草に取られたままで、散る花の浮かぶ水面を覗けば、そこには虚ろな瞳が映り込む。
お前は誰を呪って誰を愛して誰を壊そうとしたの?なんて、あの子を抱くまで明白だった問いにもう答えられない私がいる。花はとめどなく揺れて、やがて一枚一枚乖離していく。花弁同士は暫く一定の距離を保って近づいたり離れたりを繰り返し、あるものは重なり合って沈んでいき、あるものはハチドリに似た白亜紀の鳥に啄まれ、またあるものはただ散り散りになって黒ずんでいく。そんなことを何度も何度も繰り返す。そうして悟る時が来る。
呪いは己の身を祟る。水底の主に体を繋いでそのまま堕ちた、私が滅した理由はそれだと思った。けれど違った。確かにそこに愛はあったはずなのに、その方向を、こっちを見ろと投げつけた、その方法を、間違えたから祟られた。過剰な愛でも呪いでもない、執着でもない、その正体は自己愛だ。ほんとは誰も愛せないのに、その欠落を呪いに変えて、ただ執着と読み替えて、暴力として押し付けることで誤魔化した。他人を傷つけるより傷つく方が怖いから、そんな傲慢を認めたくないから、だって、私はどこまでも私自身しか愛せないから。
すっかり冷えた両足に確かな力を入れて、泥に呑まれる十秒前の身体を支えて屈みこむ。水鏡の向こうに映るゾンビに手を伸ばす。わたし今度こそ間違えない。手を伸ばしながら確かに叫ぶ。花弁を、その目を、世界を、
「ひらいて」
わたしのことを眼差して。逸らすな、逸らすな逸らすな逸らすな。あいつじゃない、あの子でもない、お前だ、私のこれは、私自身に言っている。
手を伸ばせば水面の向こうのわたしも近付いてくる。その眼差しに潜むのは、こんどこそただしい愛で、水と地上の境界線でどうしようもないほどわたしたちは抱き合って、抱き合って、もうどっちが己か分からなくなるほどに溶けあって、どっちもわたしで、どっちの身体もわたしじゃないからきもちよくて。火傷のための暴力じゃなく、今度こそぬるいぬくもりに絆されていく。
おやすみ、おやすみ花嵐。吹く風に凪ぐ、春色の美しい沼になっていく。瞳をひらけば18歳の、裸のままの私がただそこにいる。

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